『コンポジット』と『MAKEOVER』の雑感
「MAKEOVER」埼玉公演に参加している前提で話を進めています。
ネタバレ注意ってやつです。
コンポジットに対する所感
まずアルバムの話をしないといけないのでちょっとだけ。
コンポジット、客観的に見て面白いアルバムだと思うけど端的に言えば「not for me」なのが残念なところ
— けにー (@kenny_desu) 2022年2月18日
端的に言えば「刺さらね~~~~~~」という感じ。
これを好きな人もいることや、ストロングポイントが何であるかもインタビュー記事も読んで理解したけれども、とにかく自分には合わない。
フィーリングの話なのでこれはどうしようもない。人間、感情が論理よりも優先されがち。
好きでもない曲調がズラリと並んでいて、正直しんどかった。
ステーキが出てくるのはいいしステーキは美味しいけど、それはそれとして普通5連続でステーキ食べないよね? みたいな……。
最初の5曲くらいでお腹いっぱいなんだけど、俺がじっくり味わって食べたいのは後半の方のメニュー。
そういったところで「胃もたれする」という第一印象。「喜怒哀楽」の「怒」までが自分には重たいんだ。
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んで今回の公演
コンポジット、正直アルバムの評価として「Not for me」というか有り体に言えば最悪レベルだったんだけど、やはり顔とライブは裏切らないという一定の信頼があったし自分の中である程度腑に落ちる解も見つけられたのでまあ良かった
— けにー (@kenny_desu) 2022年5月1日
アルバムは苦手で公演自体にも色々と思うところはある(後述)けれども「自分の中である程度腑に落ちた」ので良かった、という評価に。
それが正解かどうかは後から考えればよいのであって、自分の中での落としどころを早々に見つけられたというところに価値があったと思う。
アルバムは概ね喜怒哀楽の順番になるように収録されており、ライブもそれに準拠した構成になった。
アルバムを引っ提げての公演であることを踏まえると、妥当性が高いセットリストだったと思う。アルバムが好きで喜怒哀楽のグラデーションを楽しみたいのであれば満足できる気がした。
曲自体に一定のパワーもあるし、実際その場の勢いでヘンテコな動きもした。何も良くなかったらヘンテコな動きすらしないで棒立ちだからね。
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今回の曲たち、ライブ映えをする曲が多いことと「喜怒哀楽」というテーマを掲げていることに特異性があると思っているんだけど、その特異性を活かすなら曲とパフォーマンスの力で語らなければならないと思う。
大場ななの言葉を借りると「喋りすぎ」なんだよね(隙あらばスタァライトくん)。
感情、「こうです」と説明されて「そうなんや」で済むものではないし、MCで事細かに説明されることに興ざめする感覚もあった。
観客の側で想像する余白が残っていてほしいんだよな。「あれってこういうことだよな」とか「これって明らかにそれだったよな」とか、会場から出てきた時に一人でブツブツと早口で考えたり、オタクと絶叫しながら話したりすることができる聖域。
説明してくれた方がよいこともあるけれど、「自分はAだと思いました。でも演者がBだと言ったのでやっぱりBです。」なんてことになるのは最悪だよね。
今の時世はなんでもかんでも説明しがち(『鬼滅の刃』が最たる例だと思う)。でも説明してわかりやすいことニーズがあることもわかる。
その上で自分は皆まで言わない方がよいと思っている。
感情の部分を押し出しているのならば、全ての公演が終わってから「あれって実はこうで……。」と話が出てくるくらいでよいと自分は考えている。
観客の心を動かす何かを舞台の上で、パフォーマンスで提示することができなければ、それはアーティストの敗北なのだと思う。
これはオタクのエゴでもあるんだけどね。
頭の中でこういうことを考えながら見ていたせいもあって、「これは喜怒哀楽ですよー」という説明に終始していた印象を受けた。
もちろん表現に何も組み込んでいないことはないだろうし、我々が考えている以上に色々なことを考えているのだと思う。
でも思ってしまったんだよな。
「お前の感情はどこにある?」
喜びも哀しみも、何もかもがパンパンに詰まった夏川椎菜という個の存在をつまびらかにする。少なくとも自分はこれが見たい。
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『プロットポイント』の頃は夏川椎菜という「役」を演じることで、彼女のバックグラウンドに紐づいたストーリーや曲が真価を発揮したものだと思う。
所謂フェーズ1がこれ。
一方のフェーズ2。
アーティストには自我が存在して、それが良いにしろ悪いにしろ、受け手の感情に何かを訴えかける。
そういうことをやる時期なのだろうし、そういう曲を押し出しているのだと思っている。
であるならば、『コンポジット』を引っ提げての公演には多くの言葉は不要ではないか。
夏川椎菜という「役」を演じることよりも、夏川椎菜という個の存在の内側からアウトプットされる感情。それこそが何よりも必要ではないか。
このギャップが違和感の正体なのだと思う。
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現状維持は後退
『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』。これは良い作品なので全人類に見てほしいし、人類である皆さんはすでに視聴済みかと思うけど……。
現状に満足することや過去の輝きに囚われること、つまり停滞を良しとしないことがこの作品の根幹にある。
あの頃のあれが一番良かったとかあれが好きだったとか、あるよね。
アーティストとしてどうあるかという大きな枠組みの話ではもちろんだけど、ライブ中の曲の使い方ひとつを取っても発生する。
曲の使い方で言えば『パレイド』が最たる例で、初披露時の衝撃というか、あれは燃えるような輝きを感じた人も多いと思う。
それが最上至高であるならばいつまでも過去の記憶に閉じ込めて眠らせておきたいと思うのだけど、昨日の起用方法を見て、何度も壊して生まれ変わらせて「再生産」していくのだというメッセージがあるんじゃないかと思った。
(「価値観のアップデート」とかの方が近いかもしれないけど、自分はこの言葉が好きではないので隙あらばスタァライトくんで……。)
少なくとも次のステージに進もうとしている。それは昨日の公演の実感として確かにあった。
その手法や方向性自体が趣味に合わないと言えばそうなんだけど、前に進もうとしていること自体は受け入れることができる。今ならそう思える。
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このあたりまで話を広げると「それはそれとして俺はあっちの路線の方が好きなんだよな~~~~~~~~~~」みたいな話がループする。居酒屋でもこれ。
理解はするけど納得できるかは別の話。オタクをしているとよくある。
そんな感じで「色々あるけど自分の中である程度の落としどころは見つけられたので良かった」という話。
アルバム新規収録曲の中でも『ミザントロープ』は特に評価をしていて、先の『パレイド』との並びで披露されたこと、『烏合讃歌』も曲自体は肌に合わないけれどもこれはフェーズ2における『イエローフラッグ』なのだと自分の目で確かめて合点がいったことなど、アルバム新規曲でも良かったシーンは多々ある。
自分の中の矜持とどう折り合いをつけるかといった話は難しいのだけど、アルバムを引っ提げた公演としては優秀だと言うほかない。
アルバム自体がどうだとか、自分の中での夏川椎菜はこういう曲の方がよいとか、そういった話はあるのだけど。
でもこういうことを考えている時が一番キモいオタクをしている実感があるよね。そういう意味では素晴らしい公演だったのかもしれない。
まあ自分は初期の路線の方が(無限ループ)。
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明確な不満点、これは他の人間がどう言おうと「そういう考え方もあるよね」とならない、ダメなものがひとつだけありました。
大阪公演の日程はちゃんと覚えていてほしかった。
わざわざ連休真っただ中に大阪に行くファンが大勢いるわけだし、高みを目指すならそういうところはちゃんとしておくれ……。