kenny_desuのひとりごと

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LAWSON presents 夏川椎菜 2nd Live Tour 2022 MAKEOVER に寄せて

いつものやつです。

 

 

 

 

「MAKEOVER」とは変身、改革といった変化をもたらす意味合いを持つ英単語である。

では何をそのようにするのか、紐解いていきたい。

 

喜怒哀楽とは

「喜怒哀楽」とはまさに書いて字のごとく、喜び、怒り、悲しみ、楽しみといった、人間のさまざまな感情を表す言葉である。
全ての感情が4つの象限に分類できるということではなく(というか不可能である)、あくまで任意の感情が持つひとつの側面でしかない。
これはインタビュー内でも語られている。

 

 夏川 田淵さんに『ハレノバテイクオーバー』の作詞・作曲をお願いするときに打ち合わせをしていまして。その中で曲のイメージやアルバム全体のテイスト、喜怒哀楽の話なんかもしたんです。そのうえで出てきた歌詞がこれだったので、ご本人がすごく気にされていて。「“感情を4つに分けろって雑が過ぎないか?”という詞が、コンセプトに反していませんか?」と。でも、私はすごくその歌詞に共感しちゃったんですよね。「確かに」と。その視点はなかったというか、そこまでちゃんと考えていなかったな、と思って。

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人間は言葉で表現しきれないほど多彩で複雑な感情を抱くものだと思うが、「感情的」という言葉になるとマイナスイメージが強くつきまとう。
「あの人は喜怒哀楽が激しい」というと良い印象は持たれないだろう。


これは人間が理性的な営みによって社会を発展させてきたことで道理や論理を重んじるようになり、感情を抑制して立ち回ることが賢いとされたからだと私は考えている。

だから感情を解き放つというのはある意味で野生的、本能的な側面が存在する行為だと思う。

とはいえ人間を構成する重要な要素であることには変わりなく、今回の表題となったアルバム『コンポジット』も、通常抑圧されている感情の解放・表現にフォーカスしている。

 

「喜」と「楽」の2つについては諸説あるけれど、時間軸の観点では「喜」は今この瞬間、「楽」は現在から未来への延長線上に意識が向いた表現だと私は考えている。

具体的な言葉をあえてカテゴライズするならば、「喜」にあたるものは自己実現・達成感・承認、「楽」は快感・高揚感・期待といったイメージだと思う。

ただこの2つは特に難しい。ひとつの事象を切り取っても「喜」であったり「楽」であったり、必ずしもプラスの感情ではなかったりするからだ。

厳密に分けられるものではなく、ベン図的に考えるのがよいのだろう。

 

 

真の1曲目とは

「宣誓」とは何らかの行事にあたり誓いを立てる行為である。したがって行事は誓いを立てたのちに行われるべきであり、これに基づけば本編の1曲目と言えるのは『ハレノバテイクオーバー』だ。

事実としては1曲目に配置されている『烏合讃歌』であるが、この曲が果たす役割はアバンであり、開会宣言なのだ。

夏川 最近はとくにそうなんですが、今回新しく書いた4曲に関しては、頭の中でアニメーションMVを流しながら歌詞を書いていました。『烏合讃歌』は、けっこうカットがパチパチ変わる歌詞なんですけど、サビではドラクロワの“民衆を導く自由の女神”をイメージして歌詞を書いています。

 

民衆を導く自由の女神”は犠牲を出しつつも民衆を率いて勇しく前進する「自由の象徴」として描かれているというのが一般的な理解である。

自由の象徴、革命の表現。革命は痛みを伴いながらも、ひとつの時代の終了を示す。

反旗を翻すことは現体制への反逆に他ならず、旗は反逆を導く象徴的なモチーフである。


ヒヨコ群が立ち上がる革命の歌、これまでの全てを連れていくことは不可能であることを理解しながらも、彼女は旗を掲げ群衆の導き手として存在するのである。群衆も立ち上がり大義のために前進する。そういう歌だ。

だからこその宣誓すなわち決意表明なのだろうし、立ち上がって前に進む、まさに「喜」といえる光景なのだろう。

 

これを踏まえて実質的には『ハレノバテイクオーバー』からライブが始まることになるのだが、自分の輝きを探す系(カテゴライズするな)の話であり、こういった話は大抵泥臭くなる。

 

綺麗には生きられない。でもそれでいい。


泥にまみれながら、痛みを抱えながら、自分の道を切り拓くしかない。ここまで来たらもう後には退けない。

革命はもう始まっているのだから。

 

 

革命が始まった先には

新しい時代を迎えてみんな幸せになりましたとさ。めでたしめでたし。

そうなれば一番よいのだが、実際には上手くいかないもどかしさ、苦しさを抱えながら人は生きていくことになる。

そうした時に発生するひとつの感情が「怒」である。

 

その矛先は自分であったり、他人であったり、環境であったり。いずれにしてもやり場に困った感情が発散されることになる。

苦しまずに得た経験に深みは出ない。最短ルートで正解に辿り着くことを全否定するわけではないが、これはこれでひとつの事実だと思う。

そしてまさに苦しんでいる最中の様子、抑圧からの解放、野性的な本能の発現、きれいでない内面との対話を表現するこそが「怒」のパートが担うものだったと考える。


「喜」と「怒」がそうであったのと同様に、「怒」と「哀」もグラデーションになりながら移行している。
実際の感情表現としても怒りが悲しみに変化したり、あるいはその逆もあったりする。
怒りが通り過ぎると嘆きや悲しみに沈んでいくような。

 

『サメルマデ』から『奔放ストラテジー』までの3曲で着目すべきは「繰り返し」であると考える。

楽曲効果としてのリフレインは新鮮さや独自性といった印象を抱かせるために用いられるが、広義での「繰り返し」は停滞・衰退の象徴ともいえる。

「同じことの繰り返し」といった時には進歩がない、成長がないという停滞しているさまを表す。

 

「毎日8時間、流れてくるペットボトルを眺めて倒れているものがあったら元に戻してください」という仕事を与えられた時のことを考えるとゾッとする。

「繰り返し」とは見方を変えれば面白みがない、時に苦痛にすらなり得るものである。
人間は変化や刺激がなければ死んでいく生き物なのである。

 

『サメルマデ』で登場する「果実」も、そうした性質を受けているのだと思う。
果実とは禁断の果実に代表されるように、人間の性質や感情にまつわる表現として古来から用いられる。

ここで表現されているのは同じ日々の中で均一化されてしまった感情なのか、いつしか殻で覆ってしまった心の奥底に眠る感情なのか、いずれにしても繰り返しの中で失われたり見えなくなったりしたものを指すのかもしれない。

 

『シマエバイイ』と『奔放ストラテジー』では同じフレーズを繰り返し用いる。

感情の取り扱い、対話、自問自答。フレーズを繰り返すことでそれらを印象付け、「哀」の感情が持つ負のスパイラル、堂々巡りをしながらも出口を探す心情を感じる。

 

 

飛翔、そして新世界へ

そして底に辿り着いて、跳ね上がるための助走ともいえる次のブロック。

 

精神的な思春期とも形容できる、少し背伸びをして手を伸ばそうとしている格好。
斜に構えるともまた少し違う、ティーンエイジャーが抱くような視点。成熟と未熟の両立。

誰にでもあったはずの、そんな時期をダブらせながら、『パレイド』/『グレープフルーツムーン』に辿り着く。

これはゼロに立ち返るための曲、そう理解した。あちらこちらを行き来した先で、在りし時に想いを馳せて立ち返るべきポジション。

激しく複雑に渦巻く感情を昇華するための通過儀礼。全てを燃やして生まれ変わる。

 

「誰かの希望になれなくて ごめんなさい」

深層に存在する感情を抉り出し、儀式は完了する。

トンネルを抜け、飛び立つための材料は揃いつつある。


このあと曲調も一転して「楽」のパートへ突入する。

ここで一貫して語られているものは前向きな態度・期待であり、限界点の突破、進み続けることへの意思表示。要するに殻を破るということである。

殻とは自らが存在する世界の外側との境界線であり、殻を破って外へと飛び出していくことが限界点の突破である。

本質的に世界そのものを変えることはできないが、認識を変えることはできる。

 

自分の限界点はここまでである、という認識を変えることこそが世界を変えることに他ならず、それは行動によって成される。

「MAKEOVER」が指す変身、改革が持つ意味とはこの変化の発生および変化をもたらそうとするアクションに他ならず、殻を破らずに死んでいく雛鳥であってはならないのである。

 

『クラクトリトルプライド』で歌っているように飛び込んで行くことが重要で、これまでのツアー終盤に配置されていた曲を起用して新たな一面を見せることによってその行動を示すのである。


殻を破り、新世界への扉を開いたその先には何があるのか。

『ナイトフライトライト』が導くものは、これまで通ってきた道が存在するからこそ辿り着く境地。

目指した道のさらにその先へ、新たな青写真を描いて進んでいく。そのための助走。

そして次の旅が始まるのである。

 

『ラブリルブラ』が予感させるのは旅の始まりであり、次なる喜怒哀楽への入口である。

そう考えると、この位置に収まる曲はこれしかないのだと自然と腑に落ちる感覚があった。
魔法はいつか解ける。解けた後のことはまだ何もわからない。

ただ今はこの特別なひとときに浸っていたい。夢の時間をもう少しだけ。

 

ライブを締めくくる曲も『ハレノバテイクオーバー』である。これは感情が喜怒哀楽の一巡で終わるものではなく、何度でも廻ることを表現しているといえるだろう。

我々は次なる入口に足を踏み入れ、また新たな道を進んでいく。そうやって世界は廻るのである。

 

世界の中にいる我々の感情もまた。